よく晴れた、いつものオフィス。
今日もキーボードの音に混じって、あの言葉が聞こえてくる。
「資料、修正させていただきます」「先方には、私からご連絡させていただきます」
丁寧さを心がけるあまり、いつのまにか誰もが口にするそのひとこと。
しかし、その便利な言葉が、私たちの主体性を少しずつ麻痺させる「甘い毒」だとしたら、あなたはどうしますか?
おやおや、同期のビジネスパーソン二人が、その毒の正体と「言葉の覚悟」について、コーヒーを飲みながら少しだけ真剣に考えているようです。
(登場人物)
真壁: 人の心理に興味がある。人格の形成に言葉の使い方が大きく関係しているのではと考えている。
相田: 真壁の同期。現実的な視点を持つ、良き聞き役
丁寧な言葉に隠された「無意識の甘え」

真壁: なあ相田、最近のビジネスシーンで、やたらと耳につく言葉がないか?
相田: ん?なんだ急に。言葉?
真壁: 「〜させていただきます」だよ。これでもかってくらい、使われているよ。
一見、丁寧で正しい敬語に聞こえるんだけど、俺にはどうも、その裏にある種の意思表明が隠れているように思えてならないんだ。
相田: 意思表明って、そんな大げさな。
まぁ「丁寧語のつもり」で使ってるのがほとんどだろ。俺だって「後ほど資料を送付させていただきます」くらいは普通に言うぞ。
真壁: もちろん、丁寧さが動機なのは分かる。
でもな、「私が対応『させていただきます』」とか「こちらの資料を修正『させていただきます』」って言葉の裏には、「(あなたの許可を得たからやるのであって)私の独断ではないですよ」っていう、無意識の自己防衛の気持ちが透けて見えないか?
相田: うーん、言われてみれば…。
確かに、責任の所在を少しだけ相手に預けてるようなニュアンスはあるかもな。
「俺が決めたんじゃない」って予防線を張ってる、みたいな。
その使い方、本当に「適切」ですか?

真壁: 特に奇妙に感じるのが、明確な指示への返答として使う場面だよ。
例えば、上司が部下に「この資料を修正してください」と依頼する。
それに対して部下が「はい、承知いたしました。修正させていただきました」と返す。
相田: あはは、それはちょっと面白いな。
頼まれた時点で修正の「許可」はとっくに出ているのに、わざわざ「させていただきます」って。
もはや、思考を伴わずに自動的に口から出てしまう、ただの口癖になっちゃってるんだろうな。
真壁: だろ?
打ち合わせで「この件について、ご説明させていただきます」って切り出すのもそうだ。
「いや、結構だ」って言われたら説明をやめるのか?って話でさ。
その言葉が含んでいる、奇妙な依存性や矛盾に、言ってる本人も気づいていないんだよ。
相田: 「それはお前の言葉に厳しすぎる解釈だ」って言う人もいそうだけどな。
真壁: そう思うだろ? でも、これって俺の個人的な考えってだけじゃないんだ。
文化庁が出している「敬語の指針」(※) によると、「〜させていただきます」が適切とされるのは、
①相手の許可が必要で、②それによって自分が恩恵を受ける、っていう2つの条件を満たす場合だけなんだと。
相田: へぇ、そんな公式見解があるのか!
じゃあ、普段の仕事の「資料修正」や「メール送信」なんて、別に許可も恩恵もないから…。
真壁: そういうこと。
ビジネスシーンで使われる多くは、厳密に言えば「誤用だ」と指摘されても仕方がないんだよ。
便利な言葉がもたらす「成長の機会損失」

相田: なるほどなぁ。
じゃあ、なんでこんなに皆が使うようになったんだ?
真壁: 多分、この言葉が失敗した時のリスクから自分を守る自己防衛の心理にこたえてくれる、すごく便利な”魔法の言葉”だからじゃないかな。
「私がこうします」って断言するには覚悟がいる。
でも「させていただきます」って言えば、「(許可を得て)やらされている」っていう構図で、心理的な負担が軽くなる。
相田: ああ、分かる気がする。
一種の「思考のショートカット」だよな。
深く考えずに使えるし、丁寧っぽく聞こえるから、つい頼ってしまう。
でも、その便利さと引き換えに、何かを失っているってことか。
真壁: 俺はそう思う。
プロとしての成長の機会とか、周りからの「本当の信頼」を、知らず知らずのうちに損なうこともあるんじゃないかな。
あなたの価値を高める「言葉の選び方」

相田: うわ、耳が痛いな(笑)。じゃあ、どうすればいいんだよ、マカベ先生。
真壁: 先生はやめろ(笑)。答えは驚くほど簡単でさ。「私が、責任をもって対応いたします」みたいに、「いたします」に置き換えればいい。
簡単に「します」に置き換えたって十分だろう。たった数文字の違いだけど、ここには天と地ほどの覚悟の差があると思うんだ。
相田: 確かに。「させていただきます」より、「私がやります」の方が、圧倒的に頼もしいもんな。
「この人に任せよう」って思える。
真壁: だろ? もし、本当に責任を取りたくないなら、言い続けるのも自由だ。
でも、そうすると、いつまでも「誰かの許可がないと動けない、受け身な人」っていう印象を与えかねない。
相田: これは若手や他人のことを批評してる場合じゃないな。
俺たちみたいなベテランも、自分自身に問いかけなきゃいけない課題だ。
真壁: まさに。自分の言葉は、自分の覚悟を映す鏡、だよ。
その鏡に、どんな自分を映したいか
…なんてな。
相田: いや、ほんとだよ。ありがとう。次の会議から、ちょっと意識してみよっかな。
おわりに

対話は以上です。
しかし、本当の対話は、これを読んだあなたの心の中から始まるのかもしれません。
私たちは日々、無数の言葉を発しています。そのひとつひとつに、自分の覚悟は宿っているでしょうか。
主体性という名のバトンを、無意識に相手に委ねてしまってはいないでしょうか。
このコラムが、あなたの言葉という鏡を、もう一度覗き込むきっかけになれば幸いです。
さあ、その鏡に、あなたは明日、どんな自分を映したいですか?
参考
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/sokai/sokai_6/pdf/keigo_tousin.pdf